2016年5月10日火曜日

ブッダの「念(サティ)」 [プラユキ・ナラテボー]



話:プラユキ・ナラテボー





「気づき(=念[Sati])

について、少し補足しておく。

日本で「気づき」こそがブッダが最も強調したポイントであり、経典のなかでブッダが発した言葉として、最も頻繁に登場してくる言葉の一つであるということを知っている人は少ないと思う。





「正念(サンマー・サティ)」というブッダの言葉は、本来含蓄されていた意味合いからは遠く隔たり、「祈り」や「信仰」的な要素が強くなってきてしまっているようだ。

ブッダが「念」という言葉にこめた意味、すなわち「思いをもつこと」でも「記憶すること」でも「信じること」でもなく、それらすべてを含めた

「今ここのありのままの心身現象、すなわち、その状態とプロセスについて油断なく気づく」

という元来の意味はほとんど消失するに至っている。

わたし自身、名僧指導のために師僧とともに渡ったアメリカで、半年間を中国系の寺ですごしたが、そこでは中華系の人たちの観音信仰、浄土信仰への熱心な信奉、そして「念仏」が最重視されている様子を日々、目の当たりにしてきた。



そのとき思ったのは、こういうことだった。

元来「念(Sati)」という言葉が宿していたエッセンスは、おそらく中国経由で仏教が日本に伝来するうちに大きな変容がとげられていったのではないか。

文字の構成においては「念」、すなわち

「今」の「心」

というように、オリジナルのニュアンスの名残がとどめられてはいるものの、その意味合いは、思考や信念をメタレベルで「気づく」という認知意識から、思考や信念そのものへと、いわば俗化させてしまったのではないだろうか。







とりわけ、日本でもよく知られている、ブッダが臨終前、弟子たちに残した最後の言葉、

「諸行は無常なり(すべては移ろいゆくもの)。怠らず努めるがよい」

とうい遺言メッセージに関して、よくこんな質問を日本の人から受けることがある。

「お釈迦さまは『怠らず努めよ』と言っていますが、何を怠らずに努めたらいいのですか?」



たしかに、そのような質問が出てくるのもうなずける。

しかし、原語に基づいてこのメッセージを受け止められれば、おそらくそのような質問も出てこなくなるだろう。



「怠らず努めよ」

の部分、原語では

「Appamada(不放逸)」

という言葉が用いられている。



「不放逸」とは

ボンヤリしないこと

ボケッとしないこと

ウッカリしないこと

といった意味である。



すなわち

「念=気づき(Sati)」を失わないこと

を意味している。



したがって、ブッダの遺言メッセージを原語に忠実に訳すと、

「諸行はすべて滅しゆくのが自然の理(法)である。不放逸にして(=気づきを失わずに)その様子を観察し、成就に至れ」

となる。



すなわちブッダが示唆したことは、

何をしているときでも不放逸でありなさい

ボンヤリしないようにありなさい

気づきを失わないようにありなさい

ということである。



実際に何を行うかという「Do」のレベルについてではなく

「Be」のレベル

すなわち意識の正しい「ありよう」

を示していたのだ。



また、このメッセージを遺言として残されたということは、ブッダが成就(=涅槃)に至るための法の実践行の精髄として

「不放逸=気づき」

という法(タンマ)をピックアップしたと理解していいだろう。実際、生前の説法や幾多の弟子たちとの対話のなかにおいても、ブッダが「不放逸=気づき」をとりわけ重んじていたとみなされるフレーズが散見される。



たとえば、こんな言葉だ。

比丘たちよ、地上のいかなる生き物たちの足跡も、すべて象の足跡の中にはいる。

象の足跡がこれらの足跡の中、最大であるように、いかなる善法も不放逸を根本とし、すべて不放逸の中に集まる。

このように不放逸こそ、すべての法の最上なるものである。



また、弟子とブッダとのあいだに交わされた、こんな問答もある。

弟子「一法にして、現在の利益(Ditthadhammikattha)と未来の利益(Samparayikattha)の二種の利益を得られるものはありますか?」

ブッダ「ある」

弟子「その法とは何でしょうか?」

ブッダ「その法とは、不放逸である」











引用:「気づきの瞑想」を生きる―タイで出家した日本人僧の物語




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