2016年5月5日木曜日

「もし極楽を通り過ぎては」 [桃水和尚]



宮崎安右衛門『聖乞食 桃水和尚』より


晩年の桃水


京都に角倉なにがしという味噌醤油を醸造する素封家があった。

この家の主人は黄檗宗の高泉禅師に深く帰依していた。そして高泉禅師より桃水(とうすい)和尚の生活をしばしば聞いて、彼は桃水(とうすい)に対する思慕の念が高まってきた。

「どうかして桃水(とうすい)和尚にお目にかかりたい」

と厚く思っていたが、いかんせん、桃水(とうすい)和尚の住処が皆目わからぬために、いかがすることも出来なかった。



ところがある日、やっと和尚の住処をつきとめることが出来た。そして無理に桃水(とうすい)を自分の家につれてきた彼は、非常に歓待しながら、その席上、桃水(とうすい)にむかって訊くのであった。

「桃水(とうすい)さま。坐禅の用心はいかがしたらよいでしょうか?」

すると桃水(とうすい)は天井をあおぎながら、さも無関心のように答えた。


「坐禅の用心と申して、べつに無い。

醤油は土用の内に造ってよし。

味噌は寒中に製(こしら)えてよし」


これ以外、桃水(とうすい)は何事も語らなかった。

主人はこれを聞いて、少なからず感動した。



ところが角倉一家の内に、黒谷の和尚(浄土宗)に帰依して所作をつまくるとて、一日に幾万遍も念仏をとなえている。茶話の際にも、称名念仏をこととする人があった。

この人が桃水(とうすい)にむかって、さも誇り顏に言うのであった。

「和尚さま、わたしは一日に一万以上の念仏をやりますが、なにか一つ、和尚さまの御教化にあずかりたいものでございます」

そのとき、桃水(とうすい)は何と思ったか、傍(かたわ)らにあった硯箱(すずりばこ)から筆をとるや、さらさらと狂歌一首したためた。


念仏を強(し)いて申すも いらぬもの

もし極楽を 通り過ぎては







引用:近代デジタルライブラリー
宮崎安右衛門『聖乞食 桃水和尚』




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