2016年5月18日水曜日

「医もまた自然にしたがうなり」[長堀優]




話:長堀優(ながほり・ゆたか)





この宇宙における「大本の物質は何か」について考える量子論をどんどん突きつめていくうちに、大本の粒子が「あやふやなもの」だということが分かってきました。

どういうことかというと、原子のなかにある電子や中性子、陽子というのは、その構成要素である「クォークの回転によって形づくられている」ということです。

竜巻と一緒だと考えるとわかり易いかもしれません。竜巻というのは回転することによって物体として見えますが、回転が止まった途端、実体はなくなってしまいます。



「この世の事象というのは幻である」とは、そのむかし東洋の覚者が瞑想でいたった真理だと言われていますが、その言葉に科学が追いつきはじめているのが現代だ、とわたしは思うのです。

結局、そこにあるのは「一元論」です。見えるものと見えないもの、粒子とエネルギー、生と死などもそうですが、これまで二元的に考えてきたことが、じつは「全てつながっている」ということを指し示しているのだと私はかんがえています。





つい最近、工藤房美さんという方が本を出しているんですが、この方は末期ガンだったんですよ。医者に診てもらったときは、もうすでに手遅れで、余命一ヶ月と宣告されたんです。

工藤さんの話で、私がすごいと思ったのは、彼女は「ガンを治してください」とは一言もたのんでいないことです。ガンも自分のからだの細胞の一部なんだから、「いままでよく頑張ってくれたね」とむしろ感謝している。ガン細胞一個一個に「ありがとう」とお礼を10万回唱えた。

なんと11ヶ月で完全に消えたんですよ、ガンが。







東洋には「同治(どうじ)という言葉があって、病気が消えなくてもいい、病気とともに生きていこうという態度のことです。

それに対応する言葉に「対治(たいじ)というのがあって、これは病気を消してやろう、闘ってやろうという態度です。





親鸞上人に「自然法爾(じねんほうに)という言葉があって、これは「すべて我が計らいにあらず」、つまり大いなる宇宙意思のもとでは、私たちのやれることは本当に小さなことでしかないという意味です。ですから自然法爾というのは「おかげさま」に置き換えられるとおもうんですよ。

「医亦従自然也」
医もまた自然(じねん)に従うなり

という言葉は、豊前中津藩の御典医を代々つとめた村上家の資料を展示した、村上医家史料館の土蔵にかかげられていた言葉です。





死について僕なりに考えているのは、そもそも「自分のからだは自分のものではないかもしれない」ということです。

なぜなら僕のからだを構成している元素は、水素や窒素など全部地球にあるもので、借り物にすぎないんです。ですから死によって確かに肉体は滅びますが、元素は分子になって地球上に存在しつづける。つまり分子として輪廻転生しているわけです。

ですから、死というのは借り物をかえすだけで、つぎの出発点なんです。日本人は昔からそのことを分かっているんですよ。「寿命」という言葉があるでしょう。これは「命が寿(ことぶ)く」、つまり命がはなやぐという意味です。











引用:致知2016年2月号
長堀優「がんの神様ありがとう」




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