2016年5月8日日曜日

タイの「死体博物館」 [プラユキ・ナラテボー]



話:プラユキ・ナラテボー



不浄観


広辞苑によれば、不浄観とは

「身体や外界の不浄を観じ、それによって執着を断ち切ろうとする観法。とくに死体が腐敗していく過程を心中に観ずる」

とある。



「大念処経」において「身随観(Kayanupassana)」として6つ挙げられている観察対象の4番目

「パティクーン・マナシガーン」
Patikula-manasikara = 厭逆作意)

と6番目の

「ナワ・シーワンティカ」
Nava-sivathika = 九墓地)

がこれにあたる。



「厭逆作意」は、別名「三十二身分観想」とも言われ、身体を三十二の要素に分解し、それぞれを繰りかえし観察していく方法である。

身体の三十二要素とは、当時の解剖学にのっとり、

「髪、毛、爪、歯、皮、肉、筋、骨、骨髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、脾臓、肺、胃、腸、胃の内容物、大便、脳髄、胆汁、痰、膿汁、血、汗、脂肪、涙、血清、唾液、鼻汁、関節滑液、小便」

の三十二である。



また、「九墓地」とは、死んだばかりの遺体の状況から、だんだんと変色、腐乱し、蛆(うじ)がわき、やがて骨や土になっていくまでの様子を九段階に分け、順々に瞑想していくものである。

タイでは「ドックマーイ・アリヤ(聖者の花)」などとも呼ばれ、寺によっては、それぞれの段階における死体の状況が、そのままズバリ写された写真集が僧侶に配られたり、スライド上映がおこなわれたりしている。また、墓場で寝起きをしながら瞑想することを勧められたりもする。

バンコクのシリラート病院では「死体博物館」があり、死者の写真やホルマリン漬けされた何体もの死体が展示されて一般公開されている。また僧侶には特別に検死解剖の見学も許され、写真やホルマリン漬けの死体では味わえない生々しい臓器の色や形、飛び交うハエの様子などを目にしたり、強烈に鼻を刺してくる死臭などともダイレクトに触れられる。



また、「エイズ寺」として知られ、多数のエイズ患者を看護する病棟もそなえたロッブリー県のプラバート・ナムプ寺では、「ホン・モラナサティ(死の瞑想部屋)」と表札のある部屋にはいると、エイズで亡くなった人のホルマリン漬けの遺体やミイラ状態になった人たちが展示されている。わたしが訪れたときにはちょうどエイズの人たちの運動会が催されたすぐ後だったようで、運動会の様子を撮影した写真なども貼られていた。そのなかには棺桶をバトン代わりにリレー競争するエイズ患者たちの姿もあった。

同行した日本のお坊さんたちには、「死の瞑想部屋」もエイズ患者の「棺桶リレー」も不評だったようで、嫌悪感をあらわにされていた。そのような気持ちは私自身、日本人のひとりとして分からないでもなかった。

しかし、タイで出家し、「身随観」の瞑想に親しみ、部屋に貼られた「聖者の花」を毎日のように眺め、キャンプファイアの焚き木のように重ねられた木組みの上で、衆目の見守るなか、燃えていく遺体を何度も目にする機会をもつにつれ、私のなかでは現代日本の斎場での火葬様式も、また、死化粧が丹念にほどこされた遺体も、あるがままの「死」という現実をできるだけ衆人の目からそらし、隠匿しようという意図が感じられるようにもなってきた。



そしてそれは、この世に生を受けた者すべてに確実にやってくる、きわめて自然な「死」という現象を、あるがままに受け止めるのとは反対に、むしろ忌避すべきものとして、忌み嫌うことの裏返しのように思えるのだった。

そう思うようになってきた時、なんだか「不浄観」という名称さえもが、どこか的を外しているようにも思えてきたのだった。あるがままの身体に、また死体という身体の自然な一状態に、「不浄」というレッテルを貼る必要がいったいあるのだろうか? それはあるがままの身体とそのプロセスについての「あるがままの観察」ではないだろうか?

そう思ったとき、あるがままに現象を観察するという方法論をとるヴィパッサナー系の「大念処経」のなかに、身体要素の観察や死体の観想がとりあげられていることに得心がいくようになった。







引用:「気づきの瞑想」を生きる―タイで出家した日本人僧の物語




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