2019年11月1日金曜日

道元の著作リンク【日本 → English】




ネルケ無方
道元を逆輸入する』より



『正法眼蔵』を道元のライフワークと呼んでもよいだろう。しかし『正法眼蔵』のほかにも、道元はたくさんの著作を残している。中国から帰ってきて、再び建仁寺に身を寄せていた1227年には、まず簡単な坐禅マニュアルである『普勧坐禅義』を書いた。



それからしばらくして、深草の安養院という小さな庵で「どうして坐禅なのか?」という問いをめぐる問答集『弁道話』を書いた。その元ネタとなったのは、後に道元の一番弟子となった懐奘とのやり取りだという説もある。



また修行の心構えを記した『学道用心集』を記したのは「現成公案」と同じ時期、興聖寺に移って間もないころだ。この時期には、とにかく修行の「いろは」的な入門書が多い。修行道場における共同生活の細かいルールをまとめた『永平清規』の多くは永平寺で書かれているが、そのなかでもとりわけ有名な『典座教訓』は興聖寺で書かれている。



そのほかにも、『宝慶記』という中国留学の道中記や『傘松道詠』という和歌集まで残している。道元は多面的な執筆活動に生涯をかけており、他のどの禅僧よりも活字を好んでいたかもしれない。



道元自ら書いたもの以外にも、その言行録として先から引用している『正法眼蔵随聞記』や『永平広録』がある。『正法眼蔵随聞記』は「正法眼蔵」という四字が題名にあるが、道元のライフワークたる『正法眼蔵』とはまったく別の作品だ。これは懐奘の手による聞き書きで、内容は道元がまだ宇治の興聖寺にいたころにした短い法話や質疑応答などを記録している。



その内容からして、聴衆には老若男女を問わず、出家在家が肩を並べていたと想像できる。『歎異抄』が親鸞の作品ではないように、『随聞記』は厳密にいえば道元の作品ではない。しかし道元が自ら書いた『正法眼蔵』より、はるかにクリアーでわかりやすく道元の言わんとしたことが読み取れるといってもよいだろう。



一方の『永平広録』は京都から北陸に移ってから、出家僧のみに提唱(大勢に仏法を示すこと)された内容だ。こちらも道元が自分で書いたわけではなく、弟子たちがノートを取って編集したものと思われる。どちらかといえば、中国禅の語録のスタイルに近い。



公案のような、掴みどころのない問いかけも多いが、しかし弟子がその問答に応じるということがなく、道元の自問自答で終わってしまうパターンが多い。近くで聞いていた当時の弟子たちにとっても、ちんぷんかんぷんだったのだろうか。現代の私たちが読むのだから、なおさらにわかりにくい。しかし和文ではなく、漢文で書かれているので、中世の曹洞宗では『正法眼蔵』よりも『永平広録』が公式なものと見なされていたようだ。そのせいか、『正法眼蔵』は江戸時代の後半まで、あまり注目されていないようだ。

十二世紀の終わりごろには、道元の説法を直に聞いて編集作業にもかかわったことのある詮慧が『正法眼蔵』について提唱し、その記録を弟子の経豪が「御聴書」という題名で、1308年に自ら著した「御抄」に収録した。

だが、その後は四百年以上も『正法眼蔵』についての言及は曹洞宗にない。1727年になって、天桂の「弁註」が出るまで、完全に忘れられていたらしい。この天桂という人はどうやら曲者で、曹洞宗ではあるが「無師独悟」を主張し、「修正」と称して『正法眼蔵』を勝手に手直ししたりしたようだ。それだけ自分の見解に自信があったということだろうが、無理な読みも少なくない(かく言う私も、よくそう言われるが……)。

天桂に刺激されて、十八世紀の後半には『正法眼蔵』の注釈は立て続けに三つも版行(書物や文書を印刷して発行することで今でいう出版にあたる)されることになった。いずれも、「御聴書」と「御抄」の解釈を踏まえながら、天桂の「弁註」には否定的だ。

版行された順番で行けば、1770年には瞎道の「一字参」、1776年には有名な学僧面山とその弟子斧山の提唱が収録されている「聞解」、そして1788年に安心院の「私記」だ。

1791年には、父幼の「那一宝」が出るが、父幼は天桂の影響を受けて、伝統的な読み方とやや違う。これらのもっとも古い『正法眼蔵』についての注釈・解釈は全巻十冊の「註解全書」にまとめられて、後ほど「眼蔵家」と呼ばれる『正法眼蔵』学者のバイブルとなったが、今は入手困難。たまに、目玉が飛び出すくらいの高額で古本屋で見かけることがある。

要するに、江戸時代の終わりごろまで、『正法眼蔵』は曹洞宗の中でさえほとんど読まれていなかったようだ。明治時代には、西有穆山「啓迪」を著しているが、その中には「現成公案」を含む『正法眼蔵』の一部を提唱している。この本の影響も宗門では大きかったが、西有は多くの眼蔵家を育てたことでも有名である。安泰寺の開山である丘宗潭も、三代目住職の岸沢惟安もその流れを汲んでいる。



岸沢惟安の『正法眼蔵全講』はもちろん安泰寺の図書室にもあるが、全巻を縦に積めば、私の背の丈より高い(それはうそ、実際に積んでみたら腰までしか届かなかった……)。問題は、積み上げた本の高さではなく内容の深さなのだが……。

道元が世間一般で読まれるようになったのは、もっと後のことだ。今は下手をすれば、僧侶よりも一般の知識人に深く掘り下げられているかもしれない。少なくとも、一般人の切り口のほうが新鮮であることが多い。

道元の思想研究に一石を投じたのは、日本人論の元祖ともいわれる哲学者の和辻哲郎だ。彼は1920年から23年にかけて発表した論文『沙門道元』において、日本精神を体現した一人として道元に近づこうとした。その中で、たとえば道元と社会問題との関係といった問題提起もしている。



それからは和辻に触発されるようにして、1935年には秋山範二の『道元の研究』が刊行され、さらに多くの日本人が道元の思想に触れるようになった。と同時に、何かしら「見失われたルーツ」のような幻想を抱くようにもなったと思う。

明治時代以降、すっかり西洋文化に染まっていた大正から昭和にかけての日本人には、アイデンティティ・クライシスが起こっていたと思う。「和魂洋才」をしながら、肝心な《和魂》がいつの間にか忘れられてしまった。あるいは、それは最初からまぼろしでしかなかったかもしれないが、人々はなんらかの「忘れかけているもの」を道元に求めるようになった。なにしろ、漢文が当たり前だった時代に、道元は堂々と和文で『正法眼蔵』を書いた。その内容も、中国禅の単なる焼き直しではなかった。禅の言葉に一ひねりも二ひねりもくわえて、道元は自らの筆にオリジナリティを求めていたのは確かだ。

しかし、それが過大評価を招いたかもしれない。「道元は中国の思想を超えて、東洋の果てで釈迦の教えを完成させたばかりではない。ハイデッガーより八百年も早く、存在と時間を実践論の立場から捉え、ウィットゲンシュタインをも超える言語論を展開した。日本人こそ東洋のアーリア人……」などとはさすがに誰も言わなかったが、

ナショナリズムに少なからず荷担した京都学派の田辺元は、日本が中国を侵略している最中の1939年に『正法眼蔵の哲学私観』を発表し、道元を日本的な思想家の典型として紹介している。



それは決して偶然ではないだろう。劣等感の裏返しにすぎないその過大評価は、道元にとって迷惑だったはずだ。道元は自分の頭で考え、自分の言葉で語る能力を持った人だった。ある意味では、珍しい日本人だったと私は思う。皮肉なことに、彼が発信した言葉は今や日本人よりも欧米人がキャッチしている。そういう時代になったのかもしれない。

道元の海外展開~思想の世界遺産禅を欧米人に紹介したのは、日本人の鈴木大拙がはじめてだ。1870年に金沢で生まれた大拙は十九世紀の終わりから渡米し、1911年にはアメリカ人女性と結婚している。1920年代から出版された、彼の"Essaysin Zen Buddhism"は大きな反響を呼び、一気に禅仏教への関心を高めた。



しかし、大拙の作品には中国禅や日本の白隠が紹介されているものの、道元への言及はなかった。そのため、西洋では長い間、「禅=臨済禅」という固定観念があった。『正法眼蔵』は江戸時代の終わりごろと、明治時代にも中国語(漢語)に訳されているが、道元が欧米の言語類に訳されたのは、実はドイツ語がはじめてだ。

1943年に岩本秀雄によって『正法眼蔵随聞記』
"SyobogenzoZuimonki:WortgetreueNiederschriftderlehrreichenWorteDogenZenzisüberdenwahrenBuddhismus"(『正法眼蔵随聞記』──道元禅師の言葉が説き明かす真の仏教の忠実な聞き書き)というややこしいタイトルでドイツ語に訳された。日独伊三国同盟がもたらした、不思議な結果といえるだろうか。

ドイツ語ではほかに1956年に、後に『源氏物語』をもドイツ語に完訳したオスカー・ベンルが"Der Zen-Meister Dogen in China"(「中国での道元禅師」)を発表し、その同じ年に上智大学で教鞭をとっていた神父ハインリッヒ・デュムランが『普勧坐禅義』を訳している。

またデュムランが後に発表した"GeschichtedesZen-Buddhismus"(禅仏教の歴史)は英語にも訳されており、欧米で広く読まれている。1968年には、クラウス・ローベルト・ハイネマンが"ZokugoinDogensShobogenzo"(道元の『正法眼蔵』における俗語)というマニアックな論文までドイツ語で発表するが、その後の道元研究は英米にリードをとられてしまった。

では、英語による道元の紹介はどうであったろうか。ドイツ語よりやや遅れて、増永霊鳳が1958年に"The Soto Approach to Zen"(曹洞宗の禅の方法)という本によってようやく道元の教えが一般に紹介された。またこの本にははじめて「現成公案」の英訳が収録された。

道元の作品の中で、なんといってもやはり『正法眼蔵』が、そしてその中でも「現成公案」が一番有名だろう。いまや、「現成公案」の巻だけなら数十種類の英訳がある。道元英訳のパイオニアとなった増永霊鳳は1975年に"A Primer of Soto Zen"(曹洞禅入門)という題で、『正法眼蔵随聞記』も翻訳している。



同じ年、西山広宣の"The Eye and Treasury of the True Law"(正法の眼と蔵)が出版されたが、これを第一巻として、1983年にようやく『正法眼蔵』の最初の英訳の全巻がそろった。



横井雄峯は1976年に
"Zen Master Dogen:An Introduction With Selected Writings"(道元禅師:選択した文章による紹介)を発表し、十年後の1986年には英訳の"Shobogenzo"も出した。その時点ですでに、『正法眼蔵』の題名を英語の単語に置き換える必要を感じていなかったのだろう。



1994年から1999年にかけて、西嶋和夫がやはり四巻で "Master Dogen's Shobogenzo" を出した。これで三つ目の完訳ということもあって、このときには "Shobogenzo" は国際語として定着していた。今では、この西嶋版の翻訳はネット上でも公開されている。



2007年に発表された "The Treasure House of the Eye of the True Treachings"(眼と真の教えの宝の家)はアメリカ人のフーバート・ニアマンの訳。こちらのバージョンも、ネットで公開中だ。



さらに、2011年には棚橋一晃が "Treasury of the True Dharma Eye"(法眼の宝庫)という英訳を完成させ、半世紀足らずで『正法眼蔵』は完訳だけでも五種類が手に入るようになった。あの読みにくい『永平広録』ですら、今世紀になって英語の完訳が出た。



これらの活発な『正法眼蔵』翻訳作業と平行して、1996年にアメリカのスタンフォード大学で「 Soto Zen Text Project」という、著名な大学教授を多数含む、新たな翻訳チームが形成された。彼らの目的は、『正法眼蔵』のほかにも道元や瑩山の多くの書物、そして現在の僧侶マニュアルである「行事規範」まで含む、曹洞宗の多くのテキストの翻訳だ。2015年で設立二十年になるが、プロジェクトはあまり進んでいないようにみえる。ホームページもあるにはあるが、最後の更新は三年前だ。熱が冷めたのか、それとも予算の問題なのだろうか。あるいは、スタンフォードの学者たちの仕事は、それだけ丁寧なのかもしれない。しかしいくら思想の世界遺産だからといって、それを現代に生かすのは学問ではないような気がする。




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