2019年12月5日木曜日

【原文】正法眼蔵_弁道話_03


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道元

辦道話(べんどうわ) [弁道話]03

とうていはく、仏家(ぶっけ)なにゝよりてか、四儀のなかに、たゞし坐にのみおほせて禅定をすゝめて証入をいふや。

しめしていはく、むかしよりの諸仏、あひつぎて修行し、証入せるみち、きはめしりがたし。ゆゑをたづねば、ただ仏家(ぶっけ)のもちゐるところをゆゑとしるべし。このほかにたづぬべからず。たゞし、祖師ほめていはく、「坐禅はすなはち安楽の法門なり」。はかりしりぬ、四儀のなかに安楽なるゆゑか。いはむや、一仏二仏の修行のみちにあらず、諸仏諸祖にみなこのみちあり。



とうていはく、この坐禅の(ぎょう)は、いまだ仏法を証会(しょうえ)せざらんものは、坐禅辦道してその(しょう)をとるべし。すでに仏正法をあきらめえん人は、坐禅なにのまつところかあらむ。

しめしていはく、痴人(ちにん)のまへにゆめをとかず、山子(さんす)の手には舟棹(しゅうとう)をあたへがたしといへども、さらに(くん)をたるべし。

それ、修証(しゅしょう)はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道(げどう)(けん)なり。仏法には、修証(しゅしょう)これ一等なり。いまも証上の(しゅ)なるゆゑに、初心の辦道すなはち本証の全体なり。かるがゆゑに、修行の用心をさづくるにも、(しゅ)のほかに(しょう)をまつおもひなかれとをしふ、直指(じきし)の本証なるがゆゑなるべし。すでに(しゅ)(しょう)なれば、(しょう)にきはなく、(しょう)(しゅ)なれば、(しゅ)にはじめなし。ここをもて、釈迦如来、迦葉(かしょう)尊者、ともに証上の(しゅ)受用(じゅよう)せられ、達磨大師、大鑑(だいかん)高祖、おなじく証上の(しゅ)引転(いんでん)せらる。仏法住持のあと、みなかくのごとし。

すでに(しょう)をはなれぬ(しゅ)あり、われらさいはひに一分(いちぶん)妙修(みょうしゅ)を単伝せる、初心の辦道すなはち一分(いちぶん)の本証を無為(むい)()にうるなり。しるべし、(しゅ)をはなれぬ(しょう)染汚(ぜんわ)せざらしめんがために、仏祖しきりに修行のゆるくすべからざるとをしふ。妙修(みょうしゅ)放下(ほうげ)すれば本証()(うち)にみてり、本証を出身すれば、妙修(みょうしゅ)通身におこなはる。

又、まのあたり大宋国にしてみしかば、諸方の禅院みな坐禅堂をかまへて、五百六百および一二千(ぞう)(あん)じて、日夜(にちや)に坐禅をすゝめき。その席主とせる伝仏心印の宗師(しゅうし)に、仏法の大意(だいい)をとぶらひしかば、修証(しゅしょう)の両段にあらぬむねをきこえき。

このゆゑに、門下の参学のみにあらず、求法(ぐほう)高流(こうりゅう)、仏法のなかに真実をねがはむ人、初心後心(ごしん)をえらばず、凡人(ぼんにん)聖人(しょうにん)を論ぜず、仏祖のをしへにより、宗匠の(みち)をおふて、坐禅辦道すべしとすゝむ。

きかずや祖師のいはく、「修証(しゅしょう)はすなはちなきにあらず、染汚(ぜんわ)することはえじ」。

又いはく、「(どう)をみるもの、(どう)を修す」と。しるべし、得道のなかに修行すべしといふことを。



とうていはく、わが(ちょう)の先代に、(きょう)をひろめし諸師、ともにこれ入唐(にっとう)伝法(でんぽう)せしとき、なんぞこのむねをさしおきて、たゞ(きょう)をのみつたへし。

しめしていはく、むかしの人師(にんし)、この法をつたへざりしことは、時節のいまだいたらざりしゆゑなり。



とうていはく、かの上代の師、この法を会得(えとく)せりや。

しめしていはく、会せば通じてむ。



とうていはく、あるがいはく、「生死(しょうじ)をなげくことなかれ、生死(しょうじ)出離(しゅつり)するにいとすみやかなるみちあり。いはゆる、心性(しんしょう)常住(じょうじゅう)なることわりをしるなり。そのむねたらく、この身体(しんだい)は、すでに(しょう)あればかならず滅にうつされゆくことありとも、この心性(しんしょう)はあへて滅する事なし。よく生滅(しょうめつ)にうつされぬ心性(しんしょう)わが身にあることをしりぬれば、これを本来の(しょう)とするがゆゑに、身はこれかりのすがたなり、死此(しし)生彼(しょうひ)さだまりなし。(しん)はこれ常住(じょうじゅう)なり、去来(こらい)現在(げんざい)かはるべからず。かくのごとくしるを、生死(しょうじ)をはなれたりとはいふなり。このむねをしるものは、従来の生死(しょうじ)ながくたえて、この身をはるとき性海(しょうかい)にいる。性海(しょうかい)朝宗(ちょうそう)するとき、諸仏如来のごとく妙徳まさにそなはる。いまはたとひしるといへども、前世(ぜんぜ)妄業(もうごう)になされたる身体(しんだい)なるがゆゑに、諸聖(しょせい)とひとしからず。いまだこのむねをしらざるものは、ひさしく生死(しょうじ)にめぐるべし。しかあればすなはち、たゞいそぎて心性(しんしょう)常住(じょうじゅう)なるむねを了知すべし。いたづらに閑坐(かんざ)して一生をすぐさん、なにのまつところかあらむ」。

かくのごとくいふむね、これはまことに諸仏諸祖の(どう)にかなへりや、いかむ。

しめしていはく、いまいふところの(けん)、またく仏法にあら。先尼(せんに)外道(げどう)(けん)なり。

いはく、かの外道(げどう)(けん)は、わが身うちにひとつの霊知(れいち)あり、かの()、すなはち縁にあふところに、よく好悪(こうあく)をわきまへ、是非をわきまふ。痛痒(つうよう)をしり、苦楽をしる、みなかの霊知のちからなり。しかあるに、かの霊性(れいしょう)は、この身の滅するとき、もぬけてかしこにむまるゝゆゑに、ここに滅すとみゆれども、かしこの(しょう)あれば、ながく滅せずして常住(じょうじゅう)なりといふなり。かの外道(げどう)(けん)、かくのごとし。

しかあるを、この(けん)をならうて仏法とせむ、瓦礫(がりゃく)をにぎつて金宝(こんぽう)とおもはんよりもなほおろかなり。癡迷(ちめい)のはづべき、たとふるにものなし。大唐国の慧忠(えちゅう)国師、ふかくいましめたり。いま心常相滅(そうめつ)の邪見を計して、諸仏の妙法にひとしめ、生死(しょうじ)本因(ほんいん)をおこして、生死(しょうじ)をはなれたりとおもはん、おろかなるにあらずや。もともあはれむべし。たゞこれ外道(げどう)の邪見なりとしれ、みゝにふるべからず。

ことやむことをえず、いまなほあはれみをたれて、なんぢが邪見をすくはば、しるべし、仏法にはもとより身心(しんじん)一如(いちにょ)にして、性相(しょうそう)不二(ふに)なりと談ずる、西(さいてん)東地(とうち)おなじくしれるところ、あへてうたがふべからず。いはむや常住(じょうじゅう)(だん)ずる門には、万法(まんぼう)みな常住(じょうじゅう)なり、()(こころ)とをわくことなし。寂滅(じゃくめつ)(だん)ずる門には、諸法みな寂滅(じゃくめつ)なり、(しょう)(そう)とをわくことなし。しかあるを、なんぞ身滅(しんめつ)心常(しんじょう)といはむ、正理(しょうり)にそむかざらむや。しかのみならず、生死(しょうじ)はすなはち涅槃(ねはん)なりと覚了すべし、いまだ生死(しょうじ)のほかに涅槃(ねはん)(だん)ずることなし。いはむや、(こころ)()をはなれて常住(じょうじゅう)なりと領解(りょうげ)するをもて、生死(しょうじ)をはなれたる仏智に妄計(もうけ)すといふとも、この領解(りょうげ)知覚の心は、すなはちなほ生滅して、またく(じょうじゅう)ならず。これ、はかなきにあらずや。

嘗観(しょうかん)すべし、身心(しんじん)一如(いちにょ)のむねは、仏法のつねの(だん)ずるところなり。しかあるに、なんぞこの()の生滅せんとき、(こころ)ひとり()をはなれて生滅せざらむ。もし一如(いちにょ)なるときあり、一如(いちにょ)ならぬときあらば、仏説おのづから虚妄(こもう)になりぬべし。又、生死(しょうじ)はのぞくべき法ぞとおもへるは、仏法をいとふつみとなる。つゝしまざらむや。

しるべし、仏法に心性大総相の法門といふは、一大法界(ほうかい)をこめて、性相をわかず、生滅をいふことなし。菩提(ぼだい)涅槃(ねはん)におよぶまで、心性(しんしょう)にあらざるなし。一切諸法万象(まんぞう)森羅(しんら)ともにたゞこれ一心にして、こめずかねざることなし。このもろもろの法門、みな平等一心なり。あへて異違(いい)なしと(だん)ずる、これすなはち仏家(ぶっけ)心性(しんしょう)をしれる様子なり。

しかあるを、この一法に()(こころ)とを分別(ぶんべつ)し、生死(しょうじ)涅槃(ねはん)とをわくことあらむや。すでに仏子なり、外道(げどう)(けん)をかたる狂人のしたのひゞきを、みゝにふるゝことなかれ。






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