2019年6月30日日曜日

原文で読む『天狗芸術論』巻之二


天狗芸術論
佚斎樗山




← 原文で読む『天狗芸術論』巻之一


巻之二

一、
一切の芸術、放下づかひ、茶碗廻しにいたるまで、事の修錬によつて上手をなすといへども、其奇妙をなすはみな気なり。

天地の大なる、日月の明らかなる、四時の運行寒暑の往来して万物の生殺をなすもの、みな陰陽の変化に過ぎず、其妙用は言説の尽す所にあらず。

万物其中にあつて、其気を以て其生を遂ぐ。気は生のみなもとなり。此気かたちをはなるる時は死す。生死の際は此気の変化のみ。生の原をしる時は死の終る所を知る。生死の道に明らかなるとき、幽明鬼神通じて一つなり。

かるがゆゑに今日身をおくところ、
生に在つても自在なり。
死にあつても自在なり。

仏家には再生流転の惧れあり。かるがゆゑに造化を以て幻妄とし、意を断ち識を去つて不去不来の空にかへるを以て成仏とす。

聖人の学は再生輪廻のおそれなし。化に乗じて尽るに帰するのみ。気を修するときはおのづから心をしる。

一、
生死の理はしりやすき所なれども、此生にしばらくの名残のみ。是を迷心といふ。この迷心妄動する故に、神くるしんで常に大負をとることをしらず。






一、
問ふ。
其極則においては、我得て聞くべからず。願はくは修行の大略を聞かむ。

曰く。
道は見るべからず、聞くべからず。其見るべく、聞くべきものは道の跡なり。其跡によつて、其跡なき所を悟る。是を自得といふ。学は自得にあらざれば用をなさず。

剣術小芸なりといへども、心体の妙用にして、其極則に及んでは道に合す。我いまだ自得にいたらずといへども、ひそかに聞くことあり。其聞所を以てしばらく汝に語らん。汝妄聴せよ。耳を以て聞くことなかれ。

夫心を載せて形を御するものは気なり。故に一身の用は全く気是を掌る。気の霊、是を心といふ。天理を具へて此気に主たるものなり。心体もと形声色臭なし。気に乗じて用をなすものなり。上下に通ずるものは気なり。僅かに思ふことあれば気にわたる。

心の物に触れて動く、是を情といふ。思惟往来する、是を念といふ。心感のままに動いて自性の天則に率ふときは、霊明始終を貫いて気の妄動なし。

たとへば舟の流れに従ひて下るが如し。動くといへども、舟静かにして動の跡なし。是を動而無動といふ。

凡人は生死の迷根いまだ断ぜず、常に隠伏して霊明の蓋となる。故に喜怒哀楽未発の時は、頑空にして濁水を湛へたるがごとし。一念僅かにうごく時は、かの隠伏の者起り、情欲妄動して我が良心に迫る。

洪水に逆上つて舟を棹さすがごとし。波あらく舟動いて内安きことなし。気妄動する時は応用自在ならず。

剣術は勝負の事なり。初学より生死の迷根を断つを以て要とす。然れども生死の迷根にはかには断ちがたし。

故に生死の理に於て心を尽し、気を錬り、勝負の事に試み、此間において工夫怠らず、殺身修行して事熟し気をさまり、其理心に徹して疑ふ事なく、惑ふことなく、此一路において霊明塞がる所なきときは、此念此に動ずることなし。

此念動ぜざる時は、気は霊明にしたがつて活達流行、心を載せて滞ることなく、否ることなく、其形を御すること無礙自在なり。

心の感に随つて応用の速やかなること、戸を開いて直に月のさし入るがごとく、物を拍つて直に声の応ずるがごとし。

勝負は応用の跡なり。我に此念なければ形に此相なし。相は念の影にして形にあらはるるものなり。形に相なければ向つて敵すべきものなし。是を敵もなく我もなしといふ。

我あれば敵あり。我なきが故に来る者の善悪邪正一念の微に至る迄、鑑にうつるが如し。我より是をうつすにはあらず。かれ来つて移るのみ。成徳の人には邪を以て向ふことあたはざるがごとし。自然の妙なり。

若し我より是を移さんとせば、これ念なり。此念我を塞ぐが故に気滞つて応用自在ならず。不測の妙用思はず為さずして、来往神のごとくなる者、是を剣術悟入の人といふ。





一、
然れども鼻高く觜あり、翅あり、故に他の事においては、霊明塞がる所ありて、心の応用自在をなすことあたはざるものは、始めより偏へに此一路に志して、心を修し、気を錬る事ここにあり。

其他のことは疾痛身に切なるをも忘れ、物耳目にふるれども眼を開いて見る事なし。況んや心を留めむや。故に此には修し得て明らかなれども、広く取つて他に用ふることあたはず。明の及ぶ所限りあればなり。

たとへば灯を箱の内に置いて一方を開くがごとし。其開きたる方は照らせども、其他は光およばず。少しく他に通ずることあるものは、其傍光の影なり。故に全き事あたはず。初めはわづかの穴を見付けて其穴を力を用ひてほりあくれば、修行の力にて次第に穴大きくなりて照らす所も大なり。

若し天地万物を以て打太刀として修行し、此箱を打破らば、四方八面明らかになり、心体の応用無礙自在にして、富貴貧賤患難困苦の大敵、前後左右より取巻くといへども一毫も動念なく、団扇を以て蠅を払ふがごとく、みな前に平伏して頭を出すものあるべからず。

此に至つて鼻も平らかになり、翅なくとも飛行自在をなすべし。

一、
凡て一芸に達したる者は常に心を用ふる故に、道理には暁きものなり。然れども志我が芸に専らなる故に、此に私して道には入りがたし。

偶々学術を好む者ありといへども、芸術を以て主とし、道学を以て客とする故に、聞く所の深理みな芸術の奴と成りて広く用をなすことあたはず。況んや心術を助くることあらんや。芸術を修するもの此所を自得せば、日々修する所の芸術我が心を助けて、其本然の妙用を証はすべし。是において芸術も亦自在を得べし。

然れども初めより執する所の一念捨てがたきものなり。学術芸術共に只此の私心をさへ去れば、天下我を動かす者なくして応用無礙自在なり。私心は金銀貨財情欲偽巧の類のみにあらず。不善にあらずといへども一念わづかに執する所あれば、即ち私心なり。

少しく執すれば少しく心体をふさぎ、大いに執すれば大いに心体をふさぐ。芸術に達する者は、其業の上においては私心の己を害すること明らかにしるといへども、広く心体応用の間に試みてしる事なし。

心術を修する者といへども、理は頓に知りやすく、一念隠微の間は修しがたきものなり。心術を修するものも我なり。芸術を修するものも我なり。此心二つあるにあらず。此ところまた熟思すべし。

一、
今事熟し、気和し、勝負の利を試みてうたがふことなく、惑ふことなく、神定まつて自在をなすものおほし。

其妙用神の如しといへども、いまだ恃む所あることを免れざるものは、舟人の舷を走り、瓦師の天守にのぼつて瓦をしくがごとし。

是を兵法の上手といふ。





一、

問ふ。
如何にして今芸術を以て道学を助けん。

答ふ。
心は性情のみ。性は心体の天理。寂然不動にして、色もなく、形もなし。

情の動く所に因つて邪あり正あり、善あり悪あり。情の変化によつて其心体の妙用を見て、天理人欲の分るる所をしる。是を学術といふ。

其是を知るは何物ぞや。すなはち自性の霊覚己に具はつて欺くべからず、誣ふべからざるの神明、是を知といふ。

世間の小知才覚をいふにはあらず。小知の才覚は意識の間に出づ。意は心の知覚なり。意識は本霊明に因るといへども、情の好悪にふれて発するが故に、意にもまた邪あり正あり、善あり悪あり。発して好悪の情をたすけて私のたくみをなす。是を小知といふ。

自性神明の知は情の好悪にかかはらず、純一にして其理の照らす所私なし。故に善もなく悪もなく、唯明らかなるのみ。意識是にしたがつて私の巧を用ひざるときは、よく情を制して執滞なく、心体の天則にしたがはしむ。

情心体にしたがつて好悪の執滞なく恐惧の動念なき時は、意識神明に和して知の用をなす。此に至つて意識の跡なし。是を毋意といふ。

もし情欲をたすけて是がために巧をなし、偽をなし、種々転変してやまざる時は、我が心体を係縛し、我が霊明を塞ぐ。是を妄心といふ。凡人は情欲心の主となるが故に、この妄心のために転動せられて、我が神を困しむることをしらず。

此ゆゑに学術は此妄心の惑ひを払ひ去り、我心体の天理を認めしり、其霊明を開き、其天則にしたがふて小知の作為を用ふることなく、物はものに任せて物のために役せられず、事は来るに任せて求むることもなく、厭ふこともなし。

故に終日思惟すれども、私なきが故に心を累はすことなく、終日事に労すれども、神を困しむることなし。命に委ね、義に決して、うたがふことなく、惑ふことなし。

我心の誠を立て、一毫も志を曲ぐることなく、害を避けんが為に偽巧を用ひず、利を得んと欲して小知を事とせず、生は生に任せて其道をつくし、死は死に任せて其帰を安んず。

天地変動すれども、此心をうばはるることなく、万物掩ひ来れども此心を乱さるることなく、思うて執滞せず、為してたのむことなし。心を存し、気を養ひ、決然として立つて屈することなく、おこたることなく、悠然として居て争ふことなく、迫ることなく、初学より此志を立て、応接の間耳目にふるる所のものを以て心を修するのうつはものとす。

理に大小なし。剣術の極則も亦此に過ぎず。故にその芸術に於て修する所の業を以て内に省み、日用常行の間に通じて心術を証せば、芸術もまた内に徹して相助け、相養ふて其益大なるべし。浅きより深きに入り、卑きを踏みて高きに登る、是古へ芸術を以て道学を助け、此を修して彼を得るの手段なり。

若し年五十以上、手足のはたらき自在ならず、或は病身又は公用に暇なくして其事を務むることあたはず、武士の職なれば心を用ひざるもおのれに快からず、たとひ手足は叶はずして頭べは二つになるとも、此心の二つにならざる所を修せんと思はば、前に論ずる所の志を立て、我が心の変ぜざる所を修して、生死一貫の理開け、天地万物我に礙るものなくば、床に臥しながらも、公用は勿論辻番火の廻りをつとめながらも、心に移る所、耳目にふるる所の物を以て打太刀として、心の修行はなるべきことなり。

間暇あらば、芸術に達したる人にあふて其事を習ひ、其理を聞いて心に証し、敵に向ふときは我がなるべき程のはたらきをなして、死を快くせんのみ。何の憂ふることかあらん。士たるもの唯志の折けざるを要とす。

形には老少あり、強弱あり、病身あり、公用しげきものあり。みな天のなす所にして、我が得て私する所にあらず。唯志は我にあつて、天地鬼神も是を奪ふことあたはず。かるが故に形は天の為る所に任せて、我は我がこころざしを行ふのみ。

小人は天の為す所を怨みて我がする所を努めず。天のする所は我が知力のおよばざる所なり。其知力の及ばざる所をうれひて、我と神を困しむる者は愚なり。






一、

問ふ。

我に多子あり。年いまだ長ぜず。剣術を修すること如何にして可ならむ。

曰く。

古へは洒掃応対より六芸に遊んで後、大学に入り以て心術をあらはす。孔門の諸賢もみな六芸に長じて道学を証する人多し。

年いまだ長ぜずして事理に通達する程の力なき者は、小知を先にせず、師にしたがつて差し当り用の足る所として、事を努め、手足のはたらきを習はし、筋骨を強ふし、其上にて気を錬り、心を修して、其極則を窺ふべし。是修行の次序なり。

二つ葉の木は柱に用ふべからず。ただ添木を立て曲らざる様にやしなふべし。

ただ幼年のはじめより志邪に往かしむべからず。志邪にゆかざれば、戯遊の事といふとも邪なきものなり。心邪なき時は正を害するものなし。天地の間用をなさざるもの稀なり。邪を以て害するが故に、其性を傷ふて用をなさず。人心もと不善なし。唯有生のはじめよりつねに邪を以て養ふ。故に薫習してしらず、自性を害して不善に陥る。邪は人欲是が根となる。

小人はただおのれを利するを以て心とする故に、己に利あれば邪なれども其邪をしらず、己に利あらざれば正なれども其正をしることなし。みづから其邪正をわきまへしらず。況んや其よつて分るる所をしらんや。故に学術は人欲の妄動を抑へ、心体天理の妙用を見て、邪正の由つてわかるる所を審らかにし、其妄心の邪をしりぞけ、自性の本体を害することなきのみ。天へ上ることにもあらず、地を潜ることにもあらず。

邪しりぞく時は、天理ひとりあらはる。邪少しくしりぞけば、天理少しくあらはれ、大いに退けば、大いにあらはる。みづから心に試みてしるべし。

剣術も亦然り。もし初学より何の弁へしる事もなく、無心にして事自然に応じ、柔を以て剛を制す、事は末なりといひて頑空惰気になりて、足もとのことをしらずんば、現世後生ともに取失ふべし。






天狗芸術論
巻之二
おわり


→ 原文で読む『天狗芸術論』巻之三


0 件のコメント:

コメントを投稿