2019年6月28日金曜日

原文で読む『天狗芸術論』巻之一


天狗芸術論
佚斎樗山




巻之一


大意


人は動物なり。
善に動かざる時は
必ず不善にうごく。

この念ここに生ぜざれば
かの念かしこに生ず。
種々転変して止まざるものは人の心なり。

吾が心体を悟つて
直に自性の天則にしたがふことは、
心術に志深く学の熟せるにあらずんばあたはざる所なり。

故に聖人初学の士において、
専ら六芸を教へて先づその器物をなし、
ここより修して大道の心法に原(たず)ね入らむことをほつし給ふ。

幼年の時より六芸に遊ぶときは、心主とする所あつて、
自ら鄙倍の辞気に遠ざかり、
玩物戯遊の この心を淫するなく、
放僻邪侈の この身を危ふするなし。

外には筋骨の束(つか)ねを固くして
病を生ずる事なく、
内には国家の備へと成つて
その禄を徒(むな)しくせず。
達して心術を証する時は大道の助けとなる。

一芸小さきなりとして是を軽んずる事なかれ。
また芸を以て道とする誤りあることなかれ。



一、剣術者あり。

曾ておもへらく、
古へ源義経の牛若丸といひし時、鞍馬の奥に入つて大小の天狗と参会し剣術の奥意を極めて後、美濃の国赤坂の宿において熊坂といふ強盗に出合ひ、牛若一人にて大勢の悪盗どもを追払ひ、熊坂を討ち留め給ふといひ伝へたり。

我此道に志深く修行し、年ありといへ共未だその奥意を極めずして其こころ充たざる所あり。我も亦山中に入り天狗に逢つて此道の極則を伝へんと夜中ひとり深山の奥に入り石上に坐して観念し、天狗をよぶ事数声、毎夜かくのごとくすれ共答ふる者なし。

或夜山中風起つて物すさまじき折ふし、色赤く鼻高く、つばさ生じてけしからぬすがたなる者、幾人といふこともなく雲中にてたたき合ふ。其こゑおびただしく聞ゆ。

暫くあつてみな杉の梢に坐して、一人の曰く。

理に形なし、器によつて其用あらはる
器なければ其理見るべからず。

太極の妙用は陰陽の変化によつてあらはれ、人心の天理は四端の情によつてあらはる。剣術は勝負の事なりといへども、其極則に及んでは心体自然の妙用にあらずといふ事なし。

然れども初学の士にはかに此に至ることかたし。故に古人の教へは形の自然にしたがつて、縦横順逆のわざを尽し、易簡にして強ふることなく、筋骨の束ねを正し、手足のはたらきを習はし、用に当り変に応ずるのみ。

事に熟せざれば、心剛なりといへども其用に応ずることあたはず。事は気を以て修す。気は心を載せて形を使ふものなり。故に気は生活して滞ることなく、剛健にして屈せざるを要とす。

事の中に至理を含んで器の自然に叶ふ。事の熟するにしたがつて気融和し、其ふくむ所の理おのづからあらはれ、心に徹してうたがひなきときは、事理一致にして気収まり、神定まつて応用無礙なり。

是古への芸術修行の手段なり。故に芸術は修錬を要とす。事熟せざれば気融和せず、気融和せざれば形したがはず、心と形と二つに成りて自在をなすことあたはず。



一、亦一人曰く。

刀は切る物なり。鑓は突く物なり。此外何の所作をか用ひん。

夫形は気に従ひ気は心にしたがふ。心動ぜざる時は気動ずることなく、心平らかにして物なき時は気もまた和して之にしたがひ、事自然に応ず。

心にものあるときは気塞がつて手足其用に応ぜず。事に心を住むるときは気此に滞つて融和せず。心を容て強む時は其跡虚にして弱し。意を起して活するときは、火を吹き立て薪の尽くるがごとし。気先だつときは燥き、しまる時は凝る。

己を守り待つて応ぜんとすれば、見合せといふものになつて、みづから己を塞て一歩も進むことあたはず、却つて敵のために弄ぜらる。懸の中の待、待の中の懸などいふことあしく心得れば、意にわたりて大いに害あり。

ここを防ぎかしこに応ぜんとする中に、無手にして健なる者にあうて叩立てられ、請太刀になりて、打出す事あたはざる者多し。之みな意にわたるゆゑなり。

かの無手なる者は応用の所作をもしらず、爰を防ぎかしこを打たんとする心もなく、生れつきたるすくやか者ゆゑに、何の惧るることもなく、人を虫とも思はねば、心を容て強むこともなく、凝ることもなく、しまることもなく、待つこともなく、ひかふることもなく、うたがふ事もなければ動ずることもなく、向ひたるままにて思慮を用ふることなく、心気ともに滞ることなし。

是世間に称する所の大形の兵法者より気の位は勝れたる所あり。然れども是を以て善とするにはあらず。彼は大水の推し来る勢の如く滞りなしといへども、暗くして血気に任せて無心なるものなり。

剣術は心体自然の応用にして、往くに形なく来るに跡なし。形あり相あるものは自然の妙用にあらず。僅かに念にわたるときは気に形あり、敵其形ある所を打つ。

心頭ものなきときは気和して平らかなり。気和して平らかなる時は、活達流行して定まる形なく、剛を用ひずして自然に剛なり。心は明鏡止水のごとし。意念わづかに心頭に横たはる時は、霊明之がために塞がれて自在をなすことあたはず。

今の芸者、心体不動の応用無礙自在なる所をしらず。意識の巧を用ひて末の事に精神を費やし、是を以て自ら得たりと思へり。

故に他の芸術に通ずることあたはず。芸術は多端なり。曲々に是を修せば生涯を尽すとも得ること有るべからず。心能く一芸に徹せば、其他は習はずしてしるべき事なり。



一、亦一人曰く。

刀は切る物なり、鑓は突く物なりといふ、勿論の義なり。

然れどもこれ理に過ぎて事の用をしらざるものなり。切るに切る事あり。突くに突く事あり。事の用をしらざるときは物に応ずること偏なり。

心剛なりといへども形背くときは中るまじき所へあたり、事の理違へば達すべき所へ達せず。吾子が言の如きは択んで精しからず語つて詳ならずといふものなり。

心体開悟したりとて、禅僧に政を執らしめ、一方の大将として敵を攻むに、豈よく其功を立てんや。其心は塵労妄想の蓄へなしといへども、其事に熟せざるがゆゑに用をなさず。

且つ弓を引いて矢を放つことは誰もしりたる事なり。然れども、其道に由らず其事に熟せず、みだりに弓を引き矢を発つときは、能く的にあたり堅きを貫くことあたはず。

必ず其志正しくその形直く、気総身に充ちて生活し、弓の性に悖ふことなく、弓と我と一体に成り、精神天地に充つるがごとく、引いて彀にみつる時、神定まつて念を動ずることなく、無心にして発す。はなして後、猶本の我なり。物に中つて後、静かに弓ををさむ。此弓道の習ひなり。

かくの如くんば遠く矢を送り、よく堅きを貫く。弓矢は木竹を以て作りたるものなりといへども、我が精神かれと一体なるときは、弓に神ありて其妙かくのごとし。

是意識の才覚を以て得る所にあらず。其理はかねて知るべけれども、心に徹し、事に熟し、修錬の功を積むにあらざれば、其妙をうることあたはざる所なり。

内に志正しからず、外に体直からざれば、筋骨の束ね固からず、気総身に充たざれば、強きを引いてたもつ事あたはず、神定まり気生活することなく、私意の才覚を用ひて其道によらず、力を以て弓を押し弦を引くときは、弓の性にさかつて、弓と我と相争つて二つになり、精神相通ずることなく、却つて弓の力を妨げ、勢を脱く。ゆゑに遠く矢を送つてかたきを貫くことあたはず。

一、 日用人事もまたかくのごとし。

志正しからず、行ひ直からざれば、君に事へて忠なく、父母に事へて孝なく、親戚朋友に信なし。

人侮り、衆悪み、物とならび立つことあたはず。気身体に充たざるときは内に病を生じ、心乏しく、事に当つて惧るることあり、屈することあり、大義を立つることあたはず。

物の性に悖ふ時は人情に反く。物とはなれて和せざるときは争ひおこる。神定まらざる時はうたがひ多くして事決せず。念動ずる時は内おだやかならず、事を誤ること多し。



一、心動ぜざる時は、気動ずることなく、事自然にしたがふといふは、理体の本然より説き下して其標的を示すのみ。事を修することは無用の費えなりといふにはあらず。理は上より説き下し、修行は下より尋ね上ること物の常なり。

人心もと不善なし。
性に率つて情欲に牽かれざる時は、神困しむことなく、物に接つて応用無礙なり。故に大学の道は在明明徳といひ、中庸には率性之謂道といふは、其大本の上より説き下して、学者に其標的をしめすものなり。

然れども凡情妄心の惑ひ深く、気質を変化して直に自性の霊明にかへることあたはず。是を以て格物致知誠意正心の工夫を説き、自反慎独の受用を説いて修行の実地を踏ましむ。是事の熟せるをまつものなり。

剣術もまた然り。
敵に向つて生を忘れ、死をわすれ、敵をわすれ、我を忘れて、念の動ぜず、意を作さず、無心にして自然の感に任するときは、変化自在にして応用無礙なり。

多勢の敵の中にあつて前後左右より切りかけ突きかけて、此形は微塵になるとも、気収まり神さだまつて少しも変動することなく、子路の冠を正すがごとくならば、豈手を空しくして倒れんや。是剣術の極則なり。

然れ共此れ足代なくして直に登らるべき道にあらず。必ず事に試み、気を錬り、心を修し、困勉の功熟するにあらずんば、此に至る事あたはじ。

吾子が言を以て初学を導かば、頑空に成つて心頭無物と心得、惰気に成つて和と覚る誤りあるべし。

一、又吾子が剛健にして無手なるものといふは、諸流に破るといふ兵法に似て少しく異なり、彼は無方なり。

破といふは気剛健活達にして、敵を脚下に踏みしき、鋭気をも避けず、虚をも窺はず、一途に敵の本陣を志して大石の落ちかかるごとく切りこむをいふ。

然れども無法にして気溢るるときは、事の功者にあふて表裏に陥ることあり。形の損得をしらざる時はあやまちあり。故に形にも習ひあり。守つておのれをうしなはず、気こることもなく、しまることもなく、生死を忘れ、進んでうたがふ事なきものなり。

気を以て破るあり。
心を以て破るあり。
ともに一つなり。

心気一つならざれば破ることあたはず。これ剣術の初門初学の入りよき道筋なり。但し気怯弱なる所あつて僅かに疑惑する所あるときは、此術行はるべからず。気に修錬あり、心に疑惑を去るの工夫あり。

然れども只一偏の気象にして、心体応用無礙自在の妙術にはあらず。此所において詳かに工夫を用ひ、理明らかに功積みて鋭気平らかにならば、熟して本体に至るべし。初学より無物の工夫のみなさば、骨を失なひ、労して功なかるべし。



一、其中に大天狗と覚しくて、鼻もさして長からず、羽翼も甚だ見れず、衣冠正しく座上にありて、謂ひて曰く。

各々論ずる所みな理なきにあらず。古へは情篤く、志し親切にして、事を務むること健やかにして、屈することなく、怠ることなし。師の伝ふる所を信じて昼夜心に工夫し、事にこころみ、うたがはしきことをば友に討ね、修行熟して吾と其理を悟る。ゆゑに内に徹すること深し。

師は始め、事を伝へて其含むところを語らず、自ら開くるを待つのみ。是を引而不発といふ。吝て語らざるにはあらず。此間に心を用ひて修行熟せんことを欲するのみ。弟子心を尽して工夫し、自得する所あれば猶往きて師に問ふ。師其の心に叶ふときは是を許すのみ。師の方より発して教ふることなし。

唯芸術のみにあらず。孔子曰く、一隅を挙げて三の隅を以て反さふせざる者には復せずと。是古人の教法なり。故に学術芸術ともに慥かにして篤し。

今人情薄く、志切ならず。少壮より労を厭ひ、簡を好み、小利を見て速やかにならんことを欲するの所へ、古法の如く教へば、修行するものあるべからず。今は師の方より途を啓きて、初学の者にも其極則を説き聞かせ、其帰着する所をしめし、猶手を執つて是をひくのみ。

かくのごとくしてすら猶退屈して止む者多し。次第に理は高上に成つて古人を足らずとし、修行は薄く居ながら、天へも上る工夫をするのみ。これまた時の勢ひなり。

人を導くは馬を御するがごとし。其邪にゆくの気を抑へて、其みづからすすむの正気を助けるのみ。また強ふることなし。

一、事に心を住むるときは、気此に滞つて融和せず、末を逐つて本を忘るといふは可なり。一向に捨て修すべからずといはば不可なり。

事は剣術の用なり。其用を捨てば、体の理何によつてかあらはれんや。用を修するによつて体を悟ることあり。体を悟つて用の自在なることあり。体用一源顕微間なし。理は頓に悟るべけれども、事は習熟にあらざれば気こつて形自在ならず。

事は理に因つて生ず。形なきものは形あるものの主なり。故に気を以て事を修し、心を以て気を修するは物の序でなり。然れども事習熟して気をさまり、神さだまることあり。

舟人の棹を取つて舷を走ること、大路をはしるがごとし。かれ何の工夫をかなさんや。只水に習熟して大水に入りても死せざることをしる。ゆゑに神定まつて此自在をなす。

樵夫の重き薪を荷つて細きそば路を伝ひ、瓦師の天守に登つて瓦を敷く、皆其事に習熟してうたがふことなく惧るることなし。かるが故に神定まつて自在をなすものなり。

剣術もまたしかり。
此芸に習熟して心に徹し、事にこころみてうたがふことなく、おそるることなき時は、気活し神定まつて、変化応用無礙自在なり。

然れども此までは気の修錬にして自ら知ることなり。恃むことあつてしかり。故に言を以て論ずべし。

彼の無心にして自然に応じ、往くに形なく、来るに跡なく、妙用不測なる者は、心体の感通思ふて得べき所にあらず、聞いて知るべきものにあらず、師も伝ふることあらず。自修の功積みて自然に得るのみ。師は其道脈を伝ふるまでなり。容易に論ずべからず。故に世に稀なり。



一、問うて曰く。
然らば我ごとき者の修して得べからざるの道か。

曰く。
何ぞ得べからざらん。聖人にさへ学びて至るべし。況んや剣術の一小芸をや。

夫剣術は大体、気の修錬なり。故に初学には事を以て気を修せしむ。初学より事を離れて気を修する時は、空にしてこころむべき所なし。気を修すること熟して心に達すべし。

此間の遅速は生質の利鈍によるべし。心の妙用を知ることは易く、おのれに徹して変化自在をなすことは難し。

剣術は生死の際に用ふるの術なり。生を捨て死に赴くことはやすく、死生を以て二つにせざることはかたし。死生を以て二つにせざるものよく自在をなすべし。

問ふ。
然らば禅僧の生死を超脱したる者は剣術の自在をなすべき歟。

曰く。
修行の主意異なり、彼は輪廻を厭ひ寂滅を期して、初めより心を死地に投じて生死を脱却したる者なり。故に多勢の敵の中にあつて、此形は微塵になるとも、念を動ぜざることは善くすべし。

生の用はなすべからず。唯死を厭はざるのみ。聖人死生一貫といふは是に異なり、生は生に任せ、死は死にまかせて、此心を二つにせず、唯義の在る所に随つて其道を尽すのみ。是を以て自在をなすものなり。

一、問ふ。
生死に心なきことは一なり。然るにかれは生の用をなさず、此は自在をなすものは何んぞや。

曰く。
初めより心を用ふる所異なり、彼は寂滅を主として生の用に心なし。唯死をよくするのみ。故に生の用においては自在をなすことあたはず。

聖人の学は死生を以て二つにせず。生にあたつては生の道をつくし、死に当つては死の道をつくす。一毫も意を作し念を動ずることなし。故に生に於ても自在をなし、死においても自在をなす。

彼は造化を以て幻妄とし、人間世を以て夢幻泡影とす。故に生の道を尽すをば、生に着して此営みをなすと思へり。かれ平生の行相を以ても見るべし。父子を離れ君臣を廃し、爵禄を班ず、武備を設けず、聖人の礼楽刑政を見ること、嬰児の戯遊を見るが如く思へり。

平生捨てて用ひざるの剣戟何ぞ此に心あらん。只死にあたつて生を惜しまず、一切世間みな心の所変なることを知るのみ。

一、問ふ。
古来剣術者の禅僧に逢うて其極則を悟りたる者あるは何ぞや。

曰く。
禅僧の剣術の極則を伝へたるにはあらず。只心にものなきときはよく物に応ず。生を愛惜するゆゑにかへつて生を困しめ、三界窠窟のごとく一心顚動するときは、この生をあやまることをしめすのみ。

彼多年此芸術に志し、深く寝席を安んぜず、気を錬り事を尽し、勝負の間において心猶いまだ開けず、憤懣して年月を送る所へ、禅僧に逢うて生死の理を自得し、万法惟心の所変なる所を聞いて、心たちまちに開け、神さだまり、たのむ所をはなれて此自在をなすものなり。

これ多年気を修し事にこころみて、其器物をなしたるものなり。一旦にして得るにはあらず。禅の祖師の一棒の下に開悟したるといふもこれに同じ。倉卒の事にあらず。芸術未熟の者、名僧知識に逢ひたりとて開悟すべきにあらず。






天狗芸術論
巻之一
おわり


→ 原文で読む『天狗芸術論』巻之二





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