2018年5月14日月曜日

「オイ」と「ハイ」【鈴木大拙】


From:
鈴木大拙
『禅百題』




「オイ」と「ハイ」


身心不二とか身心格別とかいって、身と心との実在を論ずることが、古来心理学の課題であった。単に学問としてだけでなく、一般知識人の間にも、これは興味ある問題として取り扱われた。最後の解決に達したか否かはもとより問題ではあるが。

禅はいつも窮極の経験事実そのものに留意する。そして禅の問答はここから出発するのである。


石霜慶諸(せいきそうけいしょ)は道吾円智(どうごえんじ)を師とする唐末の人であった。

僧あり問う、

「先師(道吾)一片の霊骨は黄金色で、撃(たた)くと鐘の声が出るとききますが、さて(先師その人は)どこへ行かれたものでしょうか」

石霜は別になんらの説明も与えなかった。ただ、「オイ」と言ってその僧の名を呼んだ。僧は「ハイ」と答えた。石霜すなわちいわく。

「お前にはわしの言うことがわからぬ、出て行かっしゃれ(儞不会我語、去)」

石霜は何を言ったか。相手の坊さんの名を呼んで、その人は応諾しただけだ。彼の問いに対しては、われらが分別智上で言挙げするような返事も何もなかった。それで「お前にゃわからぬ、そっちへ行け」と言うこと、はなはだ無理な申し分のようにも見える。


この問答は、黄檗(おうばく)と斐休(ひきゅう)との間にとりかわされたものと一般である。「先師」の行くえ、「其人」の去処はもとより空間的に規定すべきものでないのである。彼とか此とかの分別がまだつかぬ以前の経験事実そのものに顧みて、はじめて解決がつくのである。

それ故、それは他から聞いて覚えるべきものでなくて、「オイ」と言い、「ハイ」と答えるその刹那の覚知に見て取るべきものなのである。ここで霊明の知、無知の知の働きに徹することができる。見聞覚知に即して見聞覚知でないものを認得する時、心といい身というものの元来抽象であったことがわかるのである。

窮極の経験事実には主客彼此などというものがない、が、それはそこから出るのである、出て出ないのである。そこを見よと石霜は言う。それがわからぬとなれば、ますます坐禅すべきことになろう。



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鈴木大拙
『禅百題』



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