2021年4月9日金曜日

小川忠太郎「我という雲」

 

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小川忠太郎『剣と禅』




剣を通して道を修行するということは、試合に勝つことでも段を貰うことでもない。剣を通して人間形成をする。これが剣道の目的であります。


では、何故当り前のことが当たり前にできないかというと、人間本来の心は、明鏡のようなものであるが、それに雲がかかってしまう。雲がかかると、無明となり迷いとなる。どういう雲かというと、大雑把にいうと、「我」という雲がかかる。この無縄自縛の我という雲を無くせばよい。


面白い譬話がある。


神様の前で、鏡の前で頭を下げる。「我」というものを取ってしまう。「カガミ」の前で「ガ」を取れば、残るものは「カミ」である。それが神なのです。「我」さえ取ればよい。「我」をくっ着けているから駄目なのです。この無縄自縛の我という雲を、体と心にかけて、苦しんでいるのが人間です。この雲を無くす。空ずるのが剣道修行の基本であり、眼目です。


これから、この雲を細かく5つに分けて、お話致します。


第一は、構えに雲がかかる。心が生ずるから、妄りに構えが有ると執着し、自分に構えがあるから相手にも構えが有ると見て、そこで対立となり、争いとなる。之を構えに雲がかかったという。一刀流では、「あづち矢を招く」という。そこで、その自分の構えというものを、雲を取って本当の構えにしなくてはいけない。それが最初の修行である打込3年というものです。


然し、現代では、これをやっていない。昔はここをやったのです。打込3年、ここで懸り稽古をやる。我を許さない。タッタタッタと懸って懸って懸り抜く。その内に、懸り稽古三味に入る。これを儒教では、己に克つという。剣道の打込3年では、己に克つ修行をやる。当てっこの修行ではない。全身全霊でやる。是を獅子の気合という。


それは禅では、もっと積極的です。己を殺すと言う。之が三味。殺すから大きな自己が生まれて来る。それが大死一番、絶後に再蘇すると言う。これを最初の打込3年でやらなければいけない。


剣道を打ち込み3年、本気でやり三味力を養えば、そこから自然に本当の構えが生まれる。山岡鉄舟先生は、これを三角矩の構えと言い、苦修3年にして本体(構え)が得られると、入門規則で言い切っている。そこには雑念が入っていない。俺がというものが入っていない。自分が無いから相手がない。自分と相手が一つである。自他不二。これが構えです。自分の構えの中に、相手が入っていなくてはいけない。相手の構えの中に自分がある。一つなのです。一如である。ここが剣道の第一基本です。ここを悟らなければ駄目です。これが私の話しているところの人間形成の土台になります。


木村篤太郎先生が90才を過ぎて、“私は人間形成を若い時から心がけて来たけれども、まだまだ十分ではない。90を過ぎても。どうか、これからの若い剣道をやる人達に、若い時から人間形成の為の剣道を教えてやってほしいと思う。処が実際には、小学生から試合をやっている。自分があって相手があって当っこです。是は日本本来の剣道ではないと思う。困ったことだ”と既戴されている。その通りであります。どうか、木村先生のご配慮を無にしないで、全国の青少年及び指導に当たられる先生方が、一丸となって、人間形成の為の剣道修行に適進して頂きたいと念願する次第です。


第二は、相手からの働きかけに対する心構えですが、剣道では、互いに一足一刀に剣を交えた場合、未熟の者は此所に雲がかかって迷う。相手から色を仕懸けられると色に迷わされる。少し上達した者は、色には着かないが、無念無想の穴倉に入り、働きがない。恐ろしい境涯である。


この雲を取るには、どうしたらよいか。それは第一の構え即ち自他不二の本体に立てば、在りの儘が写る。写った儘で二念を継がなければよい。その働きは、相手と対した時に面と思う。思った時に面を打てばよい。小手と思う。思った時に小手を打てばよい。思った時に体は、そこに出てしまっている。自然の技というものです。それを思ってから打つのでは、人為的であり、後れてしまう。面と思ってから打つのでは遅い。小手と思ってから打つのでも然り、そこで出て来たら応じようと思うと後れてしまう。それでは駄目なのです。思っても駄目なのですから、思わずにやっては尚更駄目です。それは出鱈目です。


思ったら打つ。之を一念不生という。二念以下をぶち切ってしまう。処世法もこれで行けばよい。自分でこれは赤だと思ったら誰が何と言っても赤は赤。白と思ったら誰が何と言っても白。これで行けばよい。それが剣道ですよ。それを赤だから赤と言いたいけれど周囲を見て、白と言った方がよいのではなどと考えて、二念を継ぐから駄目です。愚図愚図してはだめ。善いことは善い、悪いことは悪い。それで解決して行けばよい。之が道の上に立ったはたらきです。


まあ、古い例で恐縮ですが、北条時宗は、二念を継がない。元から使者が3人来た。戦争すれば負けることは判っている。然し向うの言うことは道でないので斬ってしまった。これを斬った後には、大変だろうなどと考えてはいない。これを一刀両断という。時宗には時宗という自己がない。雲をかけていない。只至道あるのみ。


剣道で大事な処は、この一刀両断です。さむらい(武士)のこの二念を継がない精神は、剣道と儒教と禅で修行したのであります。


以上第一と第二は、外部からの働きかけに対する心構えですが、次の第三、第四、第五の三つは、内部即ち自身の心の中に生ずる雲に対する心構えです。


第三は想像紛飛の念、意馬心猿、之が五つの雲の中で一番激しい荒い念慮である。時には蜂の巣をつっ突いたように、妄念が紛起して収拾がつかないことがある。これをどう始末するか。ここで昔の人は、実に骨を折ったものです。神に祈ったり、水を浴びたり、難行苦行したりしたが、それでは荒れる意馬心猿には歯が立たない。


然し、ここに古徳の教えが残されている。それは数息観であります。ズーッと息を吸う。吸う息の中に雑念を交えない。息をグーッと吐いて行く。吐く息の中に雑念を交えない。一念一念を正念化する。数息観こそが念々正念に入る秘訣なのです。元円覚寺管長宗演老師は、数息観は禅の初歩であるが、又終極であるといわれております。


処が、そういう修行が有るということに気の付かない人が多いのではないですか。第一の三角矩本体は、苦修3年頓悟でもいけるが、第三の念々正念が本当に自分のものになるには、20年30年、否、一生かかっても難しい。それは、剣道では技や理念が邪魔するからです。


持田盛二先生が70才を過ぎてから“もう剣道は嫌になった。難しい。構えていると内からヒョッと考えが浮かんで来る。どうしようもない。この世の中に、剣道ほど難しいものはないであろう。嫌になった”と言われたことがある。先生は70才を過ぎてもこの念々正念には徹していないと反省され作らこの修行に全力をかけておられたのです。この真剣味に頭が下がる。世間で問題にしている段位などは、先生の念頭にはない。


先生は十段授与式の時、式場は妙義道場で、全剣連の渡辺敏雄さんが事務局長で、先生の前へ証書を持って行き、先生が受けられた時に、合図としてお祝いの拍手をしようと、望月正房さんが段取りをしておいた。ところが、渡辺敏雄さんが証書を持って行ったら先生は、その証書をポーンと放り投げてしまった。そして、“わしは、こんなものはいらない。実力がなくて、こういうものがどうして受けられるか。わしには、こういうものを戴く資格がない”と言われた。そして列席の人々に“皆さんは若い。私は日暮れて道遠しだ。剣道は深いんだからしっかりやって下さい”と言われた。これが十段を受けられなかった時の先生の挨拶であった。


先生は十段位を辞退されて、後輩に「剣道修行の目的は段位ではない。人間形成です。人間形成の真髄は、念々正念相続にあり」という秘訣を教えられたのです。念々正念の修行は、道場内だけではない。日常生活の上で正念の工夫を絶やさない。これが本当の剣道です。


50才以後の宮本武蔵は、日常この工夫をしていた。『五輪之書』地の巻に、我が兵法を学ばんと思う人は、道を行う法ありとして9カ条を挙げ、その第1条は、“邪なき事を思う所とある。うそをついてはいけない。之が武蔵の全体です。汚い着物でね。風呂にも入らない。そこで弟子達が、先生はどうして風呂に入らないかと尋ねると、“身体の垢は桶一杯の水でとることができるが、心の垢は取る暇がない”とね。


雑念を正念化する。一念、一念を正念化する。此所まで行ったら本物です。“我は古今の名人に候”と自認し、常に念々正念の工夫を絶やさず、二天道楽と号して、道を楽しみ、本当の人生を味わい得た道人です。


第四は、細かい念慮、之は連想です。人間は、この細かい念慮に悩まされる。どうしようもない。過去の事にぐずついたり、現在にこだわったり、又ー寸先は闇の将来を気にしたりして、自分で自分を苦しめている。


こういう厄介な雲をどう捌いたらよいか。それには、この細かい念慮は、畢寛夢・幻・空華のようなものであるということを、見破っておくことです。空中の華とは、目を煩った時に、俗も空中に在るが如くに見えるモヤモヤした華のようなもののことをいう。此れといって拠り処のない、取るに足らないものである。雲弘流では、ここを【あと先のいらぬ処を思うなよ、只中程の自由自在を】と過去も未来もいらぬ。只現在になり切れと示しており、一刀流では、夢想剣として秘している。ここは理屈では通れない悟りであります。


これを参考までに世間の事例で話すと、私の知人の奥さんが、立派な子供を20才位で交通事故で亡くした。どうしても、何年経っても諦められない。或る日、“先生、何とか諦める方法はないでしょうか”と尋ねられた。大変ですよ、親としては。


そこで私は、“奥さん【とんぼつり今日は何処までいったやら】(加賀の千代女のね)。この気持で諦められませんか"と言ってやったところが、奥さんは、よーく考えてね、まあ、それならば諦められると言いました。吾が子を亡くしたんですからね。そういうものなんですよ。力では駄目なのです。ここは、人生は夢也と悟ることです。


第五は、一念であります。第三は荒い念、第四は細かい念、第五は一念と、こう、心が幾つもあるのではない。第五の一念が本になっているのです。澄んだ所からヒョッと一念が生ずる。普通ここを自己と思っているのであるが、ここは迷雲の本です。


しかし、修行もここまで行くと容易ではない。ここは心の澄み切った所、明鏡止水・無念夢想、死人と同じく、こは危険なところ、ここを悟りと思い、修行を止める人はいくらでもいる。そこでもう一歩、薄紙1枚破る。百尺竿頭一歩進める。それで生き返る。


これは、その人の勇猛心に依るの外はない。死に切れば生きる。そこで死に切らないのと死に切ったのとでは、どこが違うか。死に切らない前には二つの眼で見る。死に切った後で生まれた見方は、一つの眼で見る。之を一隻眼が開けたといい、見性と言う。


又ー刀流では切り落しと言う。この切り落としを発明すれば、今日入門しても免許皆伝を允許される。




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