2021年4月3日土曜日

小川忠太郎、「煩悩」即「不動智」

 

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小川忠太郎『剣と禅』



剣道を道という面で説いている文献の中で、私は『不動智神妙録』『猫の妙術』の二つは優れたものであると思うが、前者は沢庵和尚の禅、即ち仏教に由来しており、後者は老荘思想から発しているが、ともに、非常に深い内容をもっているもので、剣道を道というところまで昂揚させている。



『不動智神妙録』には、人間の心が説かれているが、それには次の二つのものが述べられている。


一つは迷いであり、これを無明住地煩悩といっている。つまり、惜しい、欲しい、憎い、可愛いに執着する心の迷いであり他の一つは悟りであって、これを諸仏不動智といっている。


従って、この両者の関係を明確に把握してかからないと、これを読んでも正しく理解出来ない。人間には迷いの心もあり、また、悟りの心もある。心が二つあるのではないかという疑問も起こるわけです。


中国の朱子という大学者は、これを人心と道心に分けて、このつのものは別のものであると説いているが、これは別ではない。人心が即道心であり、無明住地煩悩が即不動智なのです。


憎い、可愛い、惜しい、欲しい、の一念に執着すれば煩悩となる。剣道で言えば、カーッと上がって来た気持ち、打ちたい、勝ちたい、負けるものかという気持ちはすべて、この煩悩です。


しかし、それをどこかへ片付けてしまうことが出来るかと言うと、そういうことは不可能であって、その煩悩も、頭から下へ降ろしさえすればよいのです。即ち、そういう気持ちを気海丹田へ、更には腫の方へズーッと下げると、煩悩はそのまま不動智になるのです。


渋柿は、吊しておいて白い粉がふいて来れば、自然に甘くなる。田の雑草は稲の害であり、これを放置しておくと稗などが稲より大きくなって、稲が負けてしまうが、これを田に踏み込んでしまうと、稲の肥料となる。これと同様に、煩悩もグーッと踏み込むと肥やしになる。煩悩即菩提であり、無明住地煩悩即諸仏不動智というわけです。


これを水と氷に例えれば、煩悩というものは、水が凍って氷になったようなものです。剣道でいえば、コチコチに固くなっていることです。ところが、その氷を融かすと水になる。このように、水と氷は本来別物でないにも拘わらず、水は融通無得であるのに、凍ってしまうと氷になって動けなくなる。これも再びサーッと融かしてしまうと、自由自在に動く。


つまりは、迷いと悟りとは二つではない。不二である、ということを悟ることが大切なのです。自分で凍らなければよい。生まれたままの天心そのものであれば、それが即ち悟りであり、不動智であります。


それ故、修行というものは、その諸仏不動智に悪い癖をつけないということであるのに、人間はともすれば、生活している中に後天的な悪い癖がつき易いものなのです。


人間にとって、名誉¥利益は大切なものですが、名利に執着して凝ってしまうと、動きがとれなくなって苦しくなってしまう。 執着しなければ名利は邪魔にならないのですから、邪魔にならない。名利は大きい方がよい。その方がより多く社会のために役立つことが出来る。


よく剣道の段などは要らないという人があるが、そうではない。又その反対に、段が欲しくてしようのない人もいる。何が何でも上がりたいという人もいるが、私はそのどちらもいけないと思う。何事にもこだわってはいけないのであって、スラーッとして執着しないという修行が必要なわけです。


『不動智神妙録』に述べられている根本原理は、このように万人が生まれながらに持っているものであるから、これに執着しない修行さえして行けばよいのです。


このように『不動智神妙録』は大変優れたものであって、鈴木大拙博士が英訳して、外国でも哲学書として有名なものです。熟読玩味して、よく分かるところを実際にやって見るのがよいと思う。



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